傷痕だらけの体〜人生日記4〜

こうして 普通の女の子とは違うと思うようになったわたしはなんでも男並みにやるようになりました。

力も強く、小6の時のクラスのレクリエーションで腕相撲大会をやっても 男の子にも勝って、優勝しました。

ちょっとした怪我も手当もせずにそのままだったし、痛みも耐えていました。

「これくらいの痛み、大したことない。」

そうやて痛みに鈍感になって行きました。

小学校6年生の時、膝が痛くて病院に通っていたのですが レントゲンでは異常がなく、とりあえず塗り薬をもらったのです。改善しませんでした。

血液の病気・リウマチかもしれないと血液検査をしました。

「違うみたいだねぇ~」

で、前回と同じ効果のない塗り薬を出されました。
手首が痛くなった時も同じでした。

そういう病院での経験も、わたしを「痛み」に対して無関心にさせていきました。

膝が痛いのだから、中学に行って陸上部に入らないほうがいいと言われていたのに

原因もわからず、効きもしない塗り薬をだして終わりの医者の言うことになんて 耳を貸さず、

陸上部に入ったのです。

そして、中2のある日、腰が痛くて立っていられない、寝ていられない、座っていられない

そんな状態になったのでした。

病院へは行かず、整骨院へ通い、電気治療をしました。

授業中、じっと座っていられず、立ったり座ったりしました。

よくなったり痛くなったり繰り返しながら3年間陸上部を続けました。

この椎間板ヘルニアとは10年以上のお付き合いとなったのです。
そして同じく中学2年の時、わきの下にシコリができました。

痛みがなければ放っておいてよいけど痛みがあったり腫れたりしたら切除したほうがいい

と言われました。悪いものかもしれないから、と。

母の判断もあり、切除しました。

調べてみると「粉瘤」で、悪いものではありませんでした。

その後も鼠蹊部にできたりしたので切除しました。

二十歳を過ぎたころ、今度は鼠蹊部より内側、外陰唇よりにできました。歩くのも痛いので躊躇なく切除しました。

結婚し、第一子を妊娠しました。妊娠中は大きなお腹の影響もあり、ヘルニアもひどくなり 左足がマヒして痛みを感じなくなっただけでなく自分で動かせなくなりました。

前へ歩く分にはいいのですが、キッチンで料理をしていて振り返るとき、左足がビクともしない。

仕方なく、両手を膝の裏に回し、持ち上げて90度外側に動かしておろし、そして右足を動かし そしてまた持ち上げて90度外側に動かしておろし、右足を動かし、そうやって振り返っていたのです。

そんな状態でも無理し続けたんです。

二人の子どもが生まれ、生活のために全国展開の飲食チェーン店にパートに出るようになりました。

そこでは能力を評価され、どんどん職位も時給も上がりました。

本社試験でも1位を取ったり、人材育成のレポートの評価も過去に例のない高評価をいただきました。

そして、深夜の時間帯も責任者として任せてもらえるようになったので 夜10時から朝8時までの深夜勤務もしました。

深夜勤務は店内清掃や食材配送品の格納など、力仕事も多かったです。

でも、楽しかったし時給も良かったので腰が痛くてもやっていました。

ある日とうとう立てなくなりました。

足に痛みが走り、「この足、切り落としてくれ!!」というくらいの痛みでした。

もうどうにもこうにも痛みに耐えれられず 時間外でしたが病院へ行きました。

そのまま入院になりました。

そして手術となりました。

術後5日間のリハビリを終えて退院しました。

手術前に言われました。

「左足の麻痺が治るかどうかは、神経の<活き>次第。戻らないこともある」 と。

大分回復はしたものの、完全には戻りませんでした。

いつしかそれが普通になり、「このくらい大したことない」と思うようになったのです。

そして自分の左膝が熱を持っているにも気が付かず 自転車通勤を続けていたのでした。

娘が足が痛いというので整形外科に連れていったとき
「そう言えば膝がなんかちょっと痛いからついでにみてもらおう」 と思って受診したら

「娘さんは大したことないけど、お母さんの方が大変ですよ。」 と言われました。

MRIを撮ってみると、半月板損傷していました。

多少リハビリをし、痛みがなくなったのでまた普通に活動しました。

走ったりもしました。 「このくらい大したことない」と。

そして、次は右ひざ半月板損傷です。

もう走りたくても走りません。

幼いころ、ブランコから落ちて頭を切ったり 父の仕事道具の丸鋸で頭を切ったり
車のシートのレールに膝から落ちて3針縫う怪我をしたり、、、
そういった「事故」で縫ったことを含めると わたしの体には30針近くの縫い痕があるのです。

今考えれば、術後の痛みも相当なものでしたしその後もしばらく安静にしていなければならなかったのに

すぐに活動し始めましたし 傷跡のことなんか全然気にせず

こんな風に簡単に「切除」を選択するのは やはり「普通の女の子・女性」ではないからでしょう。

わたしは体の痛みだけでなく 心の痛みも我慢していたことに 全く気が付いてなかったのです。

現在、高度異形成と診断されています。

*高度異形成とは子宮頸がんの前段階(前癌病変)です。
自然治癒はほとんどなく切除が常識となっているようです。

すぐに切除に同意しました。

「もう今月中にでも切っちゃってください。」 くらいの感じで。

でも、今までの縫い痕、傷跡を思い返してみたんです。

あぁ、わたしはなんでこんなに自分を痛めつけてきたんだろう。

この病気は自分で作りだしたもの。

だから自分で治さなきゃ。


切っちゃダメだ。

何故だか、今回はそう思ったのでした。

もう傷は増やしたくない、と。

子どもが救ってくれたこの命、大切にしなくては。。。
そうしていろいろな事が変わり始めたのでした。

続く。。。

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