アーカイブ | 6月 2016

希死念慮からの立ち直り〜人生日記11〜

とにかく笑顔になる!と決めたので

死にたくなる思いをどうにかしなければいけませんでした。

急に「カーッ」となって、死にたくなったり

なにかうまくできないと死にたくなったりするのでした。

ネットサーフィンの中で知った知識か紹介されていた本などから得た知識か
もう覚えていませんが、人には「思考癖」があるとのことでした。

そうか、わたしの脳は、こういう状態になると「死にたい」と思う癖がついているだけなんだな。

それなら癖を治せばいいんだ!

と思いました。

その癖を治した方法は、とても簡単なことです。

自分でなんとなくやっていたことですが
死にたいと思わなくなったのです。

自分を傷つけたくなってしまった時は、携帯で撮影した傷をみることによって
切った気分を味わっていました。

すると、気持ちも落ち着きました。

なんでしょうね、イライラしたときに煙草を吸うと落ち着く、そんな感覚に似ていました。

何度もそれをしていくうちに、画像を見なくてもその状態を作りだすことが出来るようになりました。

また、そう思ったときは、ちょっと視線を変えるだけで払拭できました。

視線というのは物事をとらえるときのとらえ方という視線ではなく
本当の視線です。

いつもわたしはそう思うとき、右側で思っているような感覚があったので
視線を左上に動かしたのです。

それだけでは弱いときは、体も左に回転させて胸を張ったのです。

そう思ったら、視線をパッと違う方向へ。

体もパッと違う方向へ。

たったそれだけでそう思う時間が短縮されました。

そして、そう思わなくなって来ました。

あとあと学んだことですが
人の感情を生みだす三つの力のうち
《フォーカス(意識の焦点)・ランゲージ(感情言語)・フィジオロジー(身体活動)》
フィジオロジーが一番影響が大きいとのことです。

使う言葉を変えるも大切、意識の焦点を変えるのも大切、でもなによりも
身体活動を変えてしまうのが手っ取り早いということです。

わたしはそれをやっていたのですね(*^^*)

皆さんも何か習慣を変えたいときはやってみてくださいね(^^♪

ご相談頂ければライフコーチとして具体的アドバイスも出来るかもしれませんぴかぴか(新しい)

希死念慮との戦い〜人生日記10〜

息子小学二年生、娘年長の夏に別居が始まり
一か月も経ったかどうかの頃
息子が言ったのです。
「やったー!ママがどんどん元気になってくるぅ~!!」

と、飛び跳ねながら喜んでくれたのです。寝てばかりでしたけど、わたしの枕元でいろいろお話ししてくれる子どもたちの話を聞いて
ニコニコしていたわたしを見て、息子がそういったのでした。この子たちの喜びは、わたしの笑顔なんだ。改めてそう感じました。子どもは親を選んで生まれてくると聞きます。

この子たちは間違いなく、本当にわたしを選んできたんだな。
わたしを支えるために、わたしの元に生まれてくれたんだな。

そう確信しました。

子どもたちのために笑顔になろう!!

そう強く決心しました。

それから離婚についていろいろ勉強し、10月に離婚調停を申し立てました。

こうして子どもと三人の暮らしが順調にしあわせになっていったかというと
そんな簡単なわけがなく。。。

調停申し立てしてから別居中の夫からの電話。

「子どもを連れていく。」などと脅してきました。

夫の声を聞くだけでもおかしくなりそうな状態だったので
そんなことを言われ気が狂ってしまいました。

大声で「助けて!助けて!」と泣き叫び
倒れてしまいました。

その声を聞いた近所の方が警察を呼んだようでした。

なにかちょっとでもうまくいかないと
「死にたい」と思ってしまうのです。

こんなわたし「殺してしまいたい」と。

頭痛、耳鳴り、めまい、低血圧、、、かと思えば一気に血圧が上がったり、、、
ほとんど寝ていました。

無理して家事をやろうとすると、なぜかものすごくイライラしてしまうのです。

そして自分を傷つけてしまうのです。

死んではダメだ、死んではダメだ

死にたい、死にたい

自分の中での戦いでした。

寝ていることしかできないので、携帯でいろいろ自分の症状などを調べたりしました。

いろんなQ&Aのようなサイトもみました。

医学的なもの哲学的なものスピリチュアル的なもの、、、
いろいろ読みました。

その中で、自分を傷つけるくらいなら、お皿を割った方が良い
と書かれているのを見つけました。

傷を子どもが見たら悲しむ。
だから自傷行為はどうしてもやめたかった。

だから、そこに書かれた通りにお皿を割るようになりました。

壁を殴るようになりました。

それでも傷つけてしまったとき、その傷を携帯で撮影しました。

それがあとあと役に立ちました。

まずは挨拶〜人生日記9〜

まずは挨拶です。

とにかく挨拶は基本ですから、挨拶のできる子に育てようと決心しました!

決心なんて大げさかもしれませんが、一度悪い噂がながれると
それを払しょくする難しさを経験してきていますので
なんとなく出来ればいいではダメだ、と思ったのです。

挨拶された方が気持ち良くなるような挨拶のできる子に育てようと決めました。

そうしてこのようにこだわって育てました。

その甲斐あって、噂を流した方にはとっても可愛がられるようになりました。

特に娘はその方のお孫さんと同級生ということもあり、娘の様子を聞く機会もあったようです。

お休みした時などの連絡帳を届けたり、回覧板を持っていったりすると
必ずお菓子を頂いてくるようになりました。

その方のお孫さんは三人兄弟なので、「女の子は可愛いねぇ」といって
娘を本当に可愛がってくれました。

そうして、周りからも何も言われなくなって行きました。

生き様で教える決心~人生日記8~

子どもの為に生きようと決めてから
アパートを借りるのに必要なお金が貯まりはじめました。

そして子どもたちに話をしました。

ママはここに居たら笑顔になれない。

笑顔になるために出て行く。

あなたたちはパパとママとどちらと暮らしたい?
好きにしていいんだよ。

だけどママは、あなたたちが自分のことをしっかり自分で出来るようになるまではママと暮らした方が良いと思う。

あなたたちがお料理出来るようになるまではママと暮らした方がいいと思う。

パパには会いたいときに会いに行けるよ。

自分のことをしっかりできるようになって、お料理も出来るようになって
その時パパと暮らしたければ、そうすればいい。

そう言って、決めさせました。

当時、5歳と7歳でした。

「ママと暮らす」

と答えました。

今考えれば、そう答えるしかなかったでしょう。

わたしとしては、この地域から出たかった。

夫も義母もいないところで自由にしたかった。

だけど、5歳と7歳の子どもがパパに会いたくなったときに
自分たちの足で歩いて会いにいける距離のところにアパートを借りました。

わたしは自分で自分の命を捨てた。
今あるこの命は子どもたちのためのもの。

そう思っていましたから。

そのころ自律神経失調でめまいも酷く、まともに働けなくなっていました。

それを心配してパート先のバイトの大学生の子たちがアパートに様子を見に来てくれました。

引っ越し後の荷物の整理や、必要な家具の買い出しなど男でも必要でしたが
その大学生たちのお陰で助かりました。

それを見ていた近所の方が、婦人会で変なことを言ったようです。

亡くなった義父の本家は600年以上前から続く家で、お寺の世話人や
地域の取りまとめ役などをしている立派な家です。

そこのお嫁さんが婦人会に出たときに言われたそうです。

「男が出入りしているよ。本家がこんなに近くにありながら
そんなことさせてていいの!?」

と。
とても嫌な思いをされたようです。

でも、大人の事情は子どもには関係ありません。

その後、もっと遠くへ行ってくれと、その本家のお嫁さんから言われました。

親の都合で、パパと離れて暮らさなきゃいけなくなった子どもに
それ以外の部分では最善を尽くそうと決めていたので
遠くへ行く気はありませんでした。

後ろめたいことをしていないのだから、いつかわかってもらえる。

この子たちを立派に育ててみせる。

わたしは何を言われても構わない。

この子たちが何を耳にしてきても、揺らがないように育ててみせる。
そのためにはわたしの生き様で教えるしかない。

そう強く決心したのでした。

やる気がわいてきました。~人生日記7~

こうして生きようと決めた後は
なんだかものすごい勢いで変わり始めました。

死なないためにはここにいちゃいけない。

でも離婚してくれない。

離婚の本を買ってきて勉強しました。

とりあえずここを出よう!

夫がどんどんお金を使ってしまうことで
わたしの姉たちは「なんで離婚しないの?」と以前から言っていたのですが
母がボソッと言った一言が、わたしを少し楽にしました。

「使われる前に自分で使っちゃえばいいじゃん。」

へっ!?

真面目な母の口からそんな言葉が出てくると思いませんでした。

そうかぁ。

自分で稼いだお金を夫の借金返済に充てなきゃいいんだぁ。

返さないと借金が増えていくだけでとても怖かった。
だから返済優先にしてきた。

そしてタイミングよく、夫の会社から特別ボーナスが出たのです。

そんなもの、生活と借金返済につかって無くなっちゃったよ。

と言って、自分名義の車を購入しました。

働いて働いて、アパートを借りるための資金を作りました。

子どもと三人で過ごす時は頭から「心配」が消えて
楽しめるようになってきました。

子どもが嬉しそうでした。

この子たちは、わたしが生きて笑っていれば幸せなんだ。

わたしが笑っていることがこの子たちの幸せなんだ。

そう思ったのです。

子どもに救ってもらったこの命、子どものために使おう!

そう決めたのでした。

毎日子どもたちの笑顔を想像するとやる気がわいてきました。

そして、引っ越せるだけのお金のめどがついたのです。

子どもが救ってくれたこの命②~人生日記6~

とにかく毎日心配で、眠れなくなっていきました。

お金がどんどん消えていく。
そんなイメージしか頭にはありません。

なんとかしなきゃ。

風俗店へ面接に行きました。
働けることになりました。

「では、明日、宣伝用写真の撮影するから来てください。」

そう言われて「はい。」と言って帰ってきました。

翌日、結局行く勇気が無く、、、行けませんでした。

夫には、風俗の面接行ってきたことを伝えましたが
それでもお金を使い続けました。

そんな日々が数年続きました。

気が付いたら3日間で2~3時間しか眠れなくなっていました。

さすがに心配になった友人が、病院まで車で乗せていってくれました。

病院の前で車をおり、入り口に向かうアスファルトの道路が
グニャグニャと波打っているように見えたのをよく覚えています。

それ以外のことは、あまり覚えていません。

とにかく眠れるように薬を出されて終わりです。

でも子どもがまだ小さかったので、薬でぐっすり眠っている間に
なにかあったらどうしよう、、、そんな想いで薬は飲みませんでした。

体の限界を迎えたのか、友人の顔を見て少しホッとしたのか
その夜は少し眠れました。

考えることも次第におかしくなって行きました。

当時夫は仕事で高速道路を使い遠くまでいくことがよくありました。

以前からよく事故を起こしていたこともあり

「高速道路で事故って死なないかな。そしたら保険金が入る。」
と思ったのです。

次の瞬間、わたしは鬼になってしまった。。。

悪魔に乗っ取られてしまった。。。

と自分が怖くなりました。

こんな自分、生きてちゃいけない。

生きてちゃいけない。

いつもイライラしていて、義理の母にも暴言を吐くようになってしまいました。

考えられない。このわたしが目上の人にこんな言葉を言うなんて。。

生きてちゃいけない。。

こんな人間、生きてちゃいけない。

母親失格。

人間失格。。失格。。。失格!!!

こうして毎日毎日死ぬことを考えるようになりました。

子どもも夫も寝静まった頃、家を抜け出し、近くの橋へ向かいました。
その橋の下は線路です。

電車が来たら飛び降りようと思ったのです。

しかし、どうやら終電は行ってしまったようで家へ戻りました。

死のうとする行為は、子どもの前でもするようになりました。

幼かった子どもには、それがどういう行為なのか理解出来ていなかったようです。

しかし、とうとうそんな子どもたちにもはっきりわかるような行動をとってしまったのです。

もうわたしはキチガイになっていました。

その日は夫の出勤時間が遅く、珍しく義母と夫と家族5人が揃っていたのです。

わたしにとっては最悪な状況です。

ちょっとした言葉でカーっとなってしまい
そうなった自分が大嫌いで死にたくなるのです。

もう、その日の会話は覚えていません。

だけど、

「死んでやる!」

と叫んだことは覚えています。

そうして包丁を喉につきつけたのです。

その時6歳の息子が泣き叫んだのです。

ママ!死なないでーーーー!!
その言葉でハッとしたんです。

生きてていいんだ。

鬼になってしまったわたしだけど
悪魔に乗っ取られてしまったわたしだけど
生きてていいんだ。。。。

息子の隣で娘も大泣きしていました。

わたし、生きてていいんだ。。。。。

息子がわたしに生きる許可を与えてくれたのでした。

あぁ、この子たちはわたしに生きてて欲しいんだ。
わたしが生きて笑っていれば、それが一番の喜びなんだ。

そう気が付いたのです。

この日から生きるための生活が始まりました。

子どもが救ってくれたこの命①~人生日記5~

わたしは今シングルマザーです。

息子小1、娘が6歳の3月に離婚が成立しました。

*******************

夫には浪費癖がありました。

パチンコに行って、お金が無くなるとお金を借りてまでしていました。

始めのうちは20万円くらいでした。
見つけたときはカードを取り上げ、わたしが毎月返済に行っていました。
やっと返済し終わったと思うと、新たな借金を発見してしまう、、の繰り返しでした。

そして第一子誕生。
親戚や友人など、本当にたくさんの方からお祝いを頂きました。
30万円は超えていたと思います。

1ヶ月の里帰りの後、お祝いを頂いた方々へ内祝いを贈ろうとしました。
そして押し入れにそのまましまって行ったご祝儀袋の束を確認すると
お金が入っていません。
残っていたのは片手にもならないくらいでした。

わたしが里帰りしている間に、夫がパチンコや飲みに行くのに使ってしまったのです。
当時、夫の実家の敷地内のアパートに住んで居ましたから
食事は実家でできたのです。
すべて夫の遊びに使ったのです。

それでも内祝いはお贈りしなければなりません。
貯蓄がどんどん無くなって行きました。

第二子の出産の時。
同じことはしないだろうと、またそのまま押し入れに置いていきました。
夫が変わってくれることを願っていました。

残念なことに、里帰りから戻るとほとんど残っていませんでした。

そしてまた、貯蓄が減りました。

少しでもお金を稼がなければ。。。。

まだ赤ん坊の娘をおんぶし、もうすぐ2歳になる息子をベビーカーに乗せ
1枚2円のポスティングをしました。

数年経って、以前勤めていた建築事務所の所長から、製図の外注をやってくれないかと
お話を頂き、自宅でCADをそろえて建築確認申請図面の外注を受けるようになりました。

当時はバブルが弾けて建築業界もダメージを受けていましたが
幼児と乳児を抱えて自宅で好きにでき、少ない月でも15万は稼げていました。

子どもを保育園に預け、自宅で仕事をし、お迎えに行って
ご飯を食べさせて寝かせ、また仕事をする。

世間は不景気で仕事がない中、わたしには次から次へと仕事が舞い込み
月40万も頂けたのでした。
でも、それは子どもを寝かしつけた後、夜中の2時3時まで仕事をし
また、寝る前の子どもとの大切な触れあいの時間を犠牲にした結果でした。

夫の浪費癖を考えると、稼げるだけ稼ぎたかったのです。

でも、そんな思いで稼いだお金も、夫の借金返済に消えたのでした。

わたしの二人の姉には「なんで離婚しないの?」と聞かれました。

乳児と幼児を抱えて離婚なんて考えたこともなかったし、自信もなかったのです。

そんなことを何度も繰り返しました。

そして、2年以内に借金返済できなければ離婚します。
と、離婚届にサインした状態でわたしました。

夫が家にいない時間はずっと心配で仕方ありませんでした。

今、この瞬間にどこかでまた借金を増やしているのではないか。

精神もおかしくなっていたことに、わたし自身気が付く余裕はありませんでした。

そんな中、姉の友人がパチンコで借金を作り、返済できなくなり
独身のお金持ちの同僚のアパートに夜中に泥棒に入ったのでした。

同僚が寝返りを打ったのを、起きたと思い、見られたと思い、
とっさに延長コードで首を絞めて殺してしまったのです。
その姉の友人とは、わたしも直接何度もあったことがあり
殺人をするような人では無かったので、本当に驚きました。

お金は人を変えてしまう。

夫も変わってしまうのでは。。

なにかしでかしてしまうのでは。。。

テレビで観るような借金取りがそのうちやってくるのでは。。。。

変わって行ったのはわたし自身でした。

それでも、その時はそんなことに全く気が付いていませんでした。

長時間座っているのは、ヘルニアにはとても悪いのです。
腰も痛い、足も痺れる、眠れない、イライラする
耳鳴り、めまい、頭痛、、、、

そしてわたしは離乳食をつくり、幼児食を作り
義理の父の食事、そして大人の食事を作っていました。

この頃は、実家で夫の両親と同居するようになっていました。
義父は心臓が悪く、ペースメーカーを入れていました。

病院から食事指導も受けていました。

ですが義母は仕事に行き、遅くに帰ってきて
市販の揚げ物ばかり買ってくるのでした。

そのうち義父の食事もわたしが作るようになっていたのでした。

そして義父が亡くなりました。

それから、義母も帰りが遅くなりました。

夫の帰宅は夜中0時過ぎ。

1歳にもならない娘と、2歳になったばかりの息子と三人で過ごす時間も
わたしの頭は心配でいっぱいだったのです。

眠れない日が続き
わたしがだんだん壊れていったのでした。

つづく。

傷痕だらけの体〜人生日記4〜

こうして 普通の女の子とは違うと思うようになったわたしはなんでも男並みにやるようになりました。

力も強く、小6の時のクラスのレクリエーションで腕相撲大会をやっても 男の子にも勝って、優勝しました。

ちょっとした怪我も手当もせずにそのままだったし、痛みも耐えていました。

「これくらいの痛み、大したことない。」

そうやて痛みに鈍感になって行きました。

小学校6年生の時、膝が痛くて病院に通っていたのですが レントゲンでは異常がなく、とりあえず塗り薬をもらったのです。改善しませんでした。

血液の病気・リウマチかもしれないと血液検査をしました。

「違うみたいだねぇ~」

で、前回と同じ効果のない塗り薬を出されました。
手首が痛くなった時も同じでした。

そういう病院での経験も、わたしを「痛み」に対して無関心にさせていきました。

膝が痛いのだから、中学に行って陸上部に入らないほうがいいと言われていたのに

原因もわからず、効きもしない塗り薬をだして終わりの医者の言うことになんて 耳を貸さず、

陸上部に入ったのです。

そして、中2のある日、腰が痛くて立っていられない、寝ていられない、座っていられない

そんな状態になったのでした。

病院へは行かず、整骨院へ通い、電気治療をしました。

授業中、じっと座っていられず、立ったり座ったりしました。

よくなったり痛くなったり繰り返しながら3年間陸上部を続けました。

この椎間板ヘルニアとは10年以上のお付き合いとなったのです。
そして同じく中学2年の時、わきの下にシコリができました。

痛みがなければ放っておいてよいけど痛みがあったり腫れたりしたら切除したほうがいい

と言われました。悪いものかもしれないから、と。

母の判断もあり、切除しました。

調べてみると「粉瘤」で、悪いものではありませんでした。

その後も鼠蹊部にできたりしたので切除しました。

二十歳を過ぎたころ、今度は鼠蹊部より内側、外陰唇よりにできました。歩くのも痛いので躊躇なく切除しました。

結婚し、第一子を妊娠しました。妊娠中は大きなお腹の影響もあり、ヘルニアもひどくなり 左足がマヒして痛みを感じなくなっただけでなく自分で動かせなくなりました。

前へ歩く分にはいいのですが、キッチンで料理をしていて振り返るとき、左足がビクともしない。

仕方なく、両手を膝の裏に回し、持ち上げて90度外側に動かしておろし、そして右足を動かし そしてまた持ち上げて90度外側に動かしておろし、右足を動かし、そうやって振り返っていたのです。

そんな状態でも無理し続けたんです。

二人の子どもが生まれ、生活のために全国展開の飲食チェーン店にパートに出るようになりました。

そこでは能力を評価され、どんどん職位も時給も上がりました。

本社試験でも1位を取ったり、人材育成のレポートの評価も過去に例のない高評価をいただきました。

そして、深夜の時間帯も責任者として任せてもらえるようになったので 夜10時から朝8時までの深夜勤務もしました。

深夜勤務は店内清掃や食材配送品の格納など、力仕事も多かったです。

でも、楽しかったし時給も良かったので腰が痛くてもやっていました。

ある日とうとう立てなくなりました。

足に痛みが走り、「この足、切り落としてくれ!!」というくらいの痛みでした。

もうどうにもこうにも痛みに耐えれられず 時間外でしたが病院へ行きました。

そのまま入院になりました。

そして手術となりました。

術後5日間のリハビリを終えて退院しました。

手術前に言われました。

「左足の麻痺が治るかどうかは、神経の<活き>次第。戻らないこともある」 と。

大分回復はしたものの、完全には戻りませんでした。

いつしかそれが普通になり、「このくらい大したことない」と思うようになったのです。

そして自分の左膝が熱を持っているにも気が付かず 自転車通勤を続けていたのでした。

娘が足が痛いというので整形外科に連れていったとき
「そう言えば膝がなんかちょっと痛いからついでにみてもらおう」 と思って受診したら

「娘さんは大したことないけど、お母さんの方が大変ですよ。」 と言われました。

MRIを撮ってみると、半月板損傷していました。

多少リハビリをし、痛みがなくなったのでまた普通に活動しました。

走ったりもしました。 「このくらい大したことない」と。

そして、次は右ひざ半月板損傷です。

もう走りたくても走りません。

幼いころ、ブランコから落ちて頭を切ったり 父の仕事道具の丸鋸で頭を切ったり
車のシートのレールに膝から落ちて3針縫う怪我をしたり、、、
そういった「事故」で縫ったことを含めると わたしの体には30針近くの縫い痕があるのです。

今考えれば、術後の痛みも相当なものでしたしその後もしばらく安静にしていなければならなかったのに

すぐに活動し始めましたし 傷跡のことなんか全然気にせず

こんな風に簡単に「切除」を選択するのは やはり「普通の女の子・女性」ではないからでしょう。

わたしは体の痛みだけでなく 心の痛みも我慢していたことに 全く気が付いてなかったのです。

現在、高度異形成と診断されています。

*高度異形成とは子宮頸がんの前段階(前癌病変)です。
自然治癒はほとんどなく切除が常識となっているようです。

すぐに切除に同意しました。

「もう今月中にでも切っちゃってください。」 くらいの感じで。

でも、今までの縫い痕、傷跡を思い返してみたんです。

あぁ、わたしはなんでこんなに自分を痛めつけてきたんだろう。

この病気は自分で作りだしたもの。

だから自分で治さなきゃ。


切っちゃダメだ。

何故だか、今回はそう思ったのでした。

もう傷は増やしたくない、と。

子どもが救ってくれたこの命、大切にしなくては。。。
そうしていろいろな事が変わり始めたのでした。

続く。。。

男の子のように~人生日記3~

その後どのように育てられたかというと、 まるで男の子のように育てられましたww

わたしが5歳くらいの時から我が家にはカラオケがありました。

当時は「ハチトラ」と言って8トラックの機材でした。

杉 良太郎さんのすきま風とか歌ってました♪
すると父に
「歌はうまく歌おうと思うな。腹から声出せ!!」
と言われました。

そのお陰でカラオケBOXで思いっきり歌うと、耳をふさがれますww

小学生に入ると
「字はうまく書こうと思うな。大きく堂々と力強く書け!」

素直に従っていたので、後々男のような字がコンプレックスになり
通信教育でペン習字を習ったのでしたww

「家に帰って来て勉強するな。真っ黒になるまで外で遊んで来い! 」

「授業をしっかり聞いていればテスト100点取れるだろう。」
「ケンカは負けて帰ってくるな。」
どうです?
女の子の育て方じゃないですよね?
5年生のころ父とキャッチボールをしていたのですが そのキャッチボールは真顔です。
わたしがグローブでボールを弾いてしまい顏に当たり後ろへそらしてしまったんです。
走って取りに行って戻ると父は黙ってグローブを構えていました。
女の子が顔にボール当たったんですよ?
でも、わたしはそれが普通になっていました。
そんな父とのキャッチボールも大好きでした(*^^*)
転んで膝を擦りむいて帰ると、父はニコニコ嬉しそうにしていましたww
「なんでもいいから1番になれ!」

とも言われていました。

わたしは走るのが速かったので、よく男の子と競争してました。
低学年のうちはわたしに勝てる男子は居ませんでした。

5年生の時、クラスの男子二人が取っ組み合いのケンカをしていました。
周りの女子は怖がって離れたところから 「やめなよ!」と言っていました。
なかなかやめる様子がなかったので わたしはスタスタと近寄り、一人の男の子を背中から抱えて グルンと吹っ飛ばしたのです 笑

これでケンカは終わりました。。笑

わたしは団子っ鼻なんですが父によくこういわれました。
「団子ッ鼻は人の上に立つんだぞ!」

また、足の人差し指が親指より長いので
「親より出世するぞ!」
と。

わたしの父は自営で工務店をしていましたので わたしはそれより出世するのだから、「社長」になるのは当たり前と思っていました。

こうしてだんだんと男の子のようなわたしが作られて行きました。
「普通の女の子とは違う」と思うようになって行きました。

続く

言葉が人をつくる~人生日記2~

あるとき母の言葉が気になりました。

「次女は、かわいそうだったからね。」
というのです。

思い返してみると、次女のことを「かわいそう」というのを何度か聞いていました。

「なんでかわいそうなの?」
と小学2年生くらいのわたしは聞いてみました。

「2歳になる前、親せきの家に預けていたから。」
というのです。

どうやら、母は無理してわたしを出産し、体調を崩して寝込んでしまったそうです。

3歳になる長女は、大工である父が建築現場まで連れていき
そこで面倒を見ていたとのこと。

1歳5か月違いの姉が親せきに預けられていたということは
その時わたしはどうしていたのだろう。。。

「みつえ(わたし)は施設に預けてた。」

「施設?」

「親のいない子が暮らしている施設だよ。
生後3か月だったから親せきにも預けられなくて
特別に許可して貰ったんだよ。」

ということです。

わたし、ここでちょっと疑問が湧いたんです。
●親せきに預けられた。
●生後3か月で施設に預けられた。

どちらが可哀想な印象がありますか?

わたしはただ聞いただけでは、施設に預けられたほうが不憫な印象があります。

あくまでも、ただ言葉として聞いた印象ですけど。

その疑問をただただ解消したくて母に聞いてみたんです。

「わたしは可哀想じゃないの?」

「あんたはまだ赤ん坊だったから
なんにもわかんないじゃない。
次女は夜寝るとき、天井が違うから
よく泣いてたって。」

なぁ~るほどぉ~!!

とても納得したのです。

客観的に見て、「かわいそう」と思える状況でも
本人に自覚が無ければ可哀想ではないんですね。

確かにわたしは預けられていた記憶はないし
月に数回家族でわたしに面会にきたときの写真を見て
「わたしって愛されてたんだ」
と思って過ごしてきましたから。

そんな話が家族の中で何度か出てきていました。

次女はちょっと卑屈なところがあり、何かというと
「どうせわたしは、、」
という言うのです。

姉ちゃんは母方の祖父に可愛がられ
みっちゃんは父方の祖父に可愛がられ
わたしは誰にも可愛がられていない。
とも言っていました。

祖父にとって長女は初孫で、横浜から当時住んでいた秦野までの50kmの距離を
タクシーで会いに来たり、高級な学習机や本革ランドセル、エレクトーンなど 、いろいろな物を買ってもらっていました。
(祖父は氷川丸の機関長や防衛大の準教授をしていたそう)

このように長女が可愛がられていたのは事実です。

わたしが生まれた頃には、祖父にも内孫がいて、内孫が可愛かったようで
わたしや次女は、ほとんど会話をした記憶がありません。

でも、わたしが父方の祖父に声をかけてもらったのは
たった1回です。

年に1回、父が実家に帰省するときにしか会わないのですが
かなり年も取っていたのもあり、いつも黙って座っている印象しかありません。

そして、あるとき5歳のわたしに話しかけたのですが
秋田弁で何を言っているのかわたしにはわからなかった上に
わたしは照れて父に背中に隠れたのです。

たったそれだけのことを「可愛がられた」と言ってひがんでいるのです。

そして、小学校卒業する前くらいのわたしは
そのことからわかったことがあるのです。

誰かが「可哀想」と言った瞬間に「可哀想な人間」が出来上がるのだと。

わたしの姉は、もし親が「この子は可哀想だ。」と言わずに育てたら
こんな卑屈なことを言わなかったんじゃないかと。

施設に預けられたわたしは「可哀想」と言われなかったお陰で
逆に愛されていたと思ってこれました。

もし、「月に数回しか面会に行けなくて申し訳ないと思ってる。」
とか、そういうことを聞いて育っていたらわたしの性格は違っていたかもしれない。
そして多くの人たちと接していく中で
この仮説は確信に変わっていきました。
親から「お前には無理」と言われた子は自信がないし
「いい子」と言われ続けた子は「親の言ういい子」を演じようと自分に制限をかけているし
「恥ずかしいことしないで・言わないで」と言われ続けた子は自分の意見を持てなくなるし
「好きなことをしなさい」といわれた子はなんでも挑戦するし
「元気でいいね」と言われ続けた子は元気だし。

わたしはこれを教訓にわが子を育て
有名飲食チェーン店では人材育成をし
塾では生徒を指導し、講師やクライアントさん、ママ友、、
出会った方すべてと接してきました。

まずは親や環境から刷り込まれた自己評価を
取っ払っうのが一番成長が早いということがわかりました。

人と会話していると
その人が発した言葉、選んだ語彙から
どんな刷り込みがあったか、なんとなくわかるのです。

本当の姿は、その奥にあるということを知っているので
その奥の素晴らしい本質を見つけてあげたい。

いつもそんな風に思って過ごしてきました。

続く